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11.02.14.水戸殿上屋敷跡(文京区小石川)小石川後楽園パンフ

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写真: 11.02.14.水戸殿上屋敷跡(文京区小石川)小石川後楽園パンフ

写真: 水戸殿上屋敷跡(文京区小石川)小石川後楽園 後楽緑道 写真: 春日局像(春日1丁目)区立磔川公園

mixiアルバム「小石川後楽園 水戸藩邸/黄門 ・藤田東湖」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000012281197&owner_id=32815602
2011年02月22日 16:35

11.02.14.
植物観賞が目的になるような場所に、時期尚早な気はしたのだけど。早ければもう梅は咲いているし、2月頭から3月頭が毎年の梅祭り。
今年は雪も降ったし、寒い日は続くが、ひどい冷え込みの日が少ない? そんな印象…。梅目当てで行ったのだが――

●寛永6(1629)年、水戸藩初代藩主徳川頼房が築いた庭園を、嫡子の光圀(水戸黄門)が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」に因っている。
7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山もとり入れている。光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。
明治2(1869)年の版籍奉還により旧藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。明治7(1874)年以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く、世界的にも名園として知られるようになった。
大正12(1923)年3月7日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。昭和27(1952)年には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では都立公園として整備され、一般に公開されている(一般300円)。
なお、1937年に隣接する旧東京砲兵工廠跡地にプロ野球興行を主たる目的として造られた野球場は、小石川後楽園にちなんで「後楽園球場」と名付けられ、さらに同じ敷地内にできた遊園地や多目的ホールなどにも同じように「後楽園」の名が冠されている。

●水戸藩邸――
寛永6(1629)年に江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園。
庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものに。また、本庭園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されている。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしている。
幕末の9代藩主の斉昭七男で、最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜(一橋家養子となり一橋慶喜)。慶喜はここ小石川の藩邸で生まれた。
御殿や江戸詰めの藩士たちが住んでいた長屋の場所は、現在東京ドームシティとなっている。

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