天王山夢ほたる公園(大山崎町)山崎合戦古戦場碑
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先にあるのは天王山 山崎城。
光秀ツイートその10ですー(°ω°)
明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」の所感込みの概要ですー。
5月17日、坂本城へ帰り、決起仕度。
同盟者確保に動く。謀反行動が漏れないよう6月2日信長討滅成功をもって密使を放つことにする。
実際、変後、近江の阿閉貞征(あつじさだゆき)、京極高次が秀吉居城 長浜城を落とし、若狭の武田元明が佐和山城を乗っ取っている。
5月22日、亀山城へ移り最後の戦闘準備。
24日、愛宕山で連歌会。その3参照。
5月29日、信長上洛。6月2日本能寺へ出頭せよとのお触れが光秀、順慶、忠興、家康へ送られる。光秀が決行日を連絡する必要なし。
6月1日、光秀出陣。
2日明け方、本能寺討ち入り。
信長討滅後安土へ進攻するはずだったが、当主信忠が堺ではなく京に、二条御所に籠城との報せを受ける。ただちにこれも滅ぼす。
信忠殺害は家康の役目だった。
順慶、忠興が現れない。この時点ではただ遅れているだけと推測。実際順慶は出陣している。
光秀は単軍安土へ。
信長公記。勢田へ進軍するも味方になるよう勧めた山岡美作守景隆・山岡対馬守景佐兄弟は応じず、勢田の橋に火をかけ焼き落とし、城にも火をかけ山中へ退き篭もった。光秀は安土へ進めなくなり坂本城へ戻った、とある。
兼見卿記。6月3日、近江の織田勢力制圧を開始。4日には全域を支配下に、5日は勢田の橋が復旧、安土城へ入城。
蓮成院記録。5日、奈良興福寺に逗留していた順慶のもとに藤田伝五が遣わされた。
綿考輯録(めんこうしゅうろく)。細川藤孝のもとへは沼田光友が遣わされた。
6日、美濃・尾張制圧に動く。
7日、兼見が安土を訪れ謀反の存分を雑談。誠仁親王の命令、京都の治安を維持せよを伝える。
兼見卿記。安土城を退去した蒲生賢秀が未だに光秀のもとに出仕していない。賢秀以外の諸将はすでに出仕済。
氏名、人数、不詳。
8日、秀吉中国大返しの報せ。急ぎ上洛の準備。
兼見卿記。明日摂津へ手勢を出す、とあり光秀の上洛が秀吉対策だと分かる。
秀吉の進軍速度は異常だった。5日には中川清秀宛の秀吉書状に備中高松から途中まで引き返したとあり、6日には松井康之宛杉若無心書状に秀吉本隊が姫路に帰還したとある。
順慶、忠興の合流遅れが大問題。
8日夜、坂本城へ入り家康、順慶、藤孝父子へ急ぎ援軍が欲しい旨を書状に認め送る。
もしかしたらここで、もしもの別れを家族には済ませていたか。
9日、光秀上洛。公家衆が出迎えに集まっていたが、兼見に無用の旨伝達。
兼見邸にて、天皇・親王・五山・大徳寺・吉田兼見それぞれへ銀子を献上。
兼見・紹巴(じょうは)・昌叱(しょうしつ)・心前と食事。
光秀、下鳥羽へ出陣。
兼見が親王の奉書を携え訪問。
綿考輯録。9日付・伝光秀自筆・藤孝宛書状。
藤孝・忠興父子が信長に弔意を表して元結を切ったことに腹を立てたが、思えば仕方のないこと。とはいえ、味方して重臣を派遣してもらいたい。恩賞として摂津を予定していたが、
但馬、若狭もお望みであれば進上する。我々の謀反は与一郎(忠興)を取り立てるためのものであり、五十日、百日の内に近国を固めた後には十五郎(嫡男明智光慶)、与一郎に政権を引き渡す所存。
この書状は細川家が家記として編纂した、いわくつきの綿考輯録に集録されたもので、筆跡、花押から判断して偽物とすると説も強い。都合の悪い部分を書き換えている可能性。
それでも、この時点で藤孝父子が離反していたこと、謀反の目的が一族全体の次世代への道を開くものであることなどがうかがえ、先述してきたことの一端が裏付けられる。
同日9日。順慶離反。
多聞院日記。河内出陣が予定されていたが、急遽引き揚げ、居城郡山城に籠城する準備が始まった。
多聞院日記に、順慶が心変わりしたのではないかと記されている。
6月10日、光秀摂津へ進軍。摂津を領する池田恒興・中川清秀・高山右近はすでに秀吉側だった。
高山右近には宣教師オルガンティーノから、何があっても光秀には味方するなという書状が届いていた。荒木村重傘下から離反させたのもオルガンティーノ。庇護者信長を討った光秀憎しだったようだ。
11日、光秀は下鳥羽へ引き返し、淀城修繕。摂津制圧を断念し、防衛線を山崎まで退いた。苦しい状況に陥ったことを認識しただろう。
兼見卿記。
12日、青龍寺の西において鉄砲戦。近辺が放火された。
13日、雨降、申刻に至り山崎において数刻鉄砲の音鳴り止まず。五條口より落武者が白川一乗寺あたりへ落ち行くも一揆によって討ち取られ剥ぎ取られる。
京都より報せがあり、光秀は敗れ青龍寺城に籠った。討死多数。秀吉軍2万が包囲。
14日、昨晩光秀は脱走したとのこと。どこへ落ちたかは分からない。
15日、光秀は醍醐のあたりで一揆に討ち取られ、その首を村井清三が織田信孝の許へ持参。
惟任退治記。
光秀は人数を段々に立て置いたが、秀吉は軍勢を三筋に分けて中筋・川の手・山の手から一度に押し込み即座に追い崩したので光秀軍は悉く敗北した。光秀近侍三千ばかり一手に固まって青龍寺城へ籠城。
方々に逃げた輩を追い詰めて殺す。丹波筋に切って入り一人も逃さず討ち、青龍寺を四方八面取り囲んだ。光秀は夜半に五、六人に案内させて脱出。光秀脱出を知った城内は我先にと崩れ出し、過半が討たれた。
山科、醍醐、逢坂、吉田、白川、山中、その辺りで討ち取られた首が無数本能寺に集められた。悉く検分したところ、その中に光秀の首があった。
浅野家文書。秀吉が宛てた書状。
十三日の晩に山崎に陣取った高山右近、中川清秀、堀秀政勢に光秀は段々に人数を揃えて切りかかる所を、道筋(中筋)は高山・中川・堀、
南の手(川の手)は羽柴秀長、黒田孝高、神子田半左衛門ほかが切り崩し、青龍寺城を取り巻いた。光秀は青龍寺城を夜に脱出したが、山科の藪の中で百姓に首を拾われた。
フロイス・一五八二年日本年報追加。高山右近からでも聴いたのだろう。
摂津の三人の領主は秀吉に先行して山崎という大きな村へ進んだ。中川清秀が山の手を、池田信輝が淀川沿いを、高山右近が中央の山崎村を進んだ。
右近は明智軍が至近に迫ったと聞いて、後方の秀吉に応援を請うとともに合戦を急ぐ兵を抑制していた。ところが明智軍が山崎村の東黒門を叩くまで近づいたので、一千人に満たない手勢を率いて門を開き攻撃した。高山軍は死者一人に対して明智軍は高貴なる者二百が討たれ、勇気を失った。
第一回目の合戦の後、両翼の中川・池田軍が合流し、明智軍は逃げ始めた。秀吉軍二万余が近傍まで迫っていることが明智軍の勇気を失わせたが、秀吉軍は疲労し到着することができなかった。この勝利は正午のことで、光秀滅亡の主因となった。
光秀の兵ははなはだ急いで逃亡し、青龍寺城も安全でないと考え、午後二時京都を通過した。全員が通過するのに二時間を要した。彼らは坂本を目指したが村々から盗賊などが出て襲ったので坂本に着けなかった者が多数いた。
光秀は一部の兵と青龍寺城に入った。その後秀吉全軍が包囲し、都に聞こえたほど終夜銃を放った。攻囲軍はみな疲労困憊して朝まで起きれなかった。光秀はほとんど単身で城を抜け出して坂本へ向かった。光秀は隠れていて農夫らに坂本へ連れて行くように頼んだが、彼らは槍で刺して光秀を殺した。
早い時間に開戦したこと。
雨天だったこと。
光秀側から仕掛けたと思われること。秀吉軍到着前に摂津勢を叩くつもりだった?
長時間に及ぶ銃撃戦があったこと。
雨天の中の進撃。右近の鉄砲隊は軒下にでもいて火縄銃が使えたのだろうこと。
山の手川の手が合流して総攻撃。
午後二時から四時にかけて京都を敗走したこと。
山崎合戦は光秀VS摂津衆(高山右近・中川清秀・池田恒興)で、秀吉軍本隊二万は疲労もあってほとんど戦闘していない。
晴天、順慶・藤孝、摂津衆の動向次第では勝利できたのかもしれない。仇は宣教師か。
オルガンティーノらは、変後の混乱のなか盗賊に騙されて琵琶湖の島に監禁されていた。それを救ったのは光秀の手の者。救い出したオルガンティーノに右近説得の書状を書かせ、その者が右近にそれを届けている。
日本語の書状には光秀に味方せよと。ポルトガル語の書状には何があっても光秀には味方するなと。使者がポルトガル語を読めなかったばかりに。
光秀は醍醐か山科で殺された。
光秀の遺体は首と胴を繋がれて、京都七口のひとつ粟田口(東海道と東山道の出入口)に晒された。
その後粟田口の東に首塚が築かれて埋葬され、現在東山三条白川筋に「明智光秀の塚(明智光秀首塚)」として弔われている。
※その4掲載地点。
この章の後に、家康と秀吉の思惑、企図が記されています。そこが味噌です本命です。是非書籍購入して読んでくださいませませ<(≧ω≦)テヘペロ!
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2019年5月10日 00:47 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)
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