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妙見社/妙見寺(高崎市)染谷川古戦場考察地

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写真: 妙見社/妙見寺(高崎市)染谷川古戦場考察地

写真: 妙見社/妙見寺(高崎市)染谷川古戦場考察地 写真: 高崎ビューホテル展望(西南)

蒼海城→国分尼寺→国分寺→妙見社です。
ここから高崎市巡回ダダダダッ☆≡≡≡≡ヘ(〃 ̄ ̄ω ̄ ̄)ノ



mixi記事コピペ――2016年03月26日 10:45
16.03.15.
三鈷山 吉祥院 妙見寺
宗派、天台宗
本尊、釈迦如来
開基、伝 藤原忠明
創建、伝 霊亀元(715)年

延暦16(797)年に成立した「続日本紀」に記載がある。かつては七星山 息災寺と号し、本尊は妙見菩薩。
日本三妙見。
境内入口の左に「妙見尊」、右に「妙見寺」とある。境内西に妙見社、東に妙見寺が隣り合わせに建っている。
前が寺造り、後が神社造りの珍しい神仏合体の建物。
背後の本殿は天保十年に再建された入母屋造。
妙見社本殿は市重要文化財に指定されている。
妙見社は妙見堂とも呼ばれており、社殿は、お堂のような寄棟造。

玄松子の記憶様→ http://www.genbu.net/data/kouzuke/myouken_title.htm


●染谷川合戦――
平将門が上野国府を襲った時の染谷川古戦場はここいら。
承平元(931)年、平将門・平良文と兄 平国香が上野国府近く、上野国花園村(群馬県群馬郡群馬町)の染谷川で合戦に及んだ(染谷川の戦い)。※国分寺と社領地を接する。
将門・良文は敗れ、わずか7騎で逃れてきたところを妙見菩薩に助けられたという逸話がある(妙見縁起絵巻)。この染谷川は川幅わずか2mほどの小川で、対陣して合戦におよぶような場所ではないように思える。
実際この合戦はもろもろ不詳。創作伝承と考察されている。
※平良文wikiコピー――平将門が伯父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっていた。そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩薩を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。一方、将門は凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門を離れ良文の元に渡ったとされる。(←)
平良文の父 平高望(たかもち。高望王)は賜姓皇族。桓武天皇の孫(もしくは曾孫)。高望王流桓武平氏、つまり坂東平氏の祖。
良文の生没年不詳。
良文の5人の子のうち平将門の娘 春姫を正室とした3男 平忠頼から、千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏が、5男 平忠光からは三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」が形成された。のちの鎌倉幕府御家人の多くがこの血族。


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1hYcnOa-Dh-CZpWYn11kqD2XP3vk&usp=sharing

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